先日、MFさんといつものようにLINEチャットしていた際、「オーディオマニアは高齢者が多く、耳の聴力としての性能は相当落ちているはずなのに、音が分かるのか?分かるとすればそれはなぜか?」というような話になりました。
暫くのやり取りの後、自分なりに色々考えたことを記します。
独善や思い違いもあると思います。その点はご容赦下さい。
そもそも、「音が分かる」とは何?
非常にワイドレンジな英語の歌の再生を例に考えると分かりやすいのではないでしょうか?
これを、音が聞こえること、歌詞の意味が分かること、歌の上手い下手が分かること、と分けて考えます。
「音が聞こえること」
そのソースに入っている非常に高い音、小さい音が聴きとれるかどうか?という点では、20、30歳代の若者と比較して、私を含む50歳以上の人間には勝ち目はありません。
「歌詞の意味が分かること」
その曲の英語の歌詞を言葉のニュアンスまで理解出来るかという点では、我々日本人は英語ネイティブな人には決して及びません。
私自身、英語の能力が低く英語圏での生活経験が浅かったかった20、30歳代の頃より随分と改善したとは思いますが、ネイティブとの差は埋めがたいものがあります。
歌詞の理解と同様、曲の構成の評価・理解は音楽理論を学んだ音楽家はやはり優れていて、「ここでの転調はユニークだ」というようなコメントを読むと、「それは指摘してもらわない限りとても自分では分からないな」と思うこともしばしばです。
「歌の上手い下手(良い演奏、良くない演奏)が分かること」
これに関しては、そもそも主観的であり、経験と努力が物を言う万人にフェアなものだと思います。同じジャンルの多くの曲を聴けば聴くほど、自分なりの評価軸が確立されて、歌の良し悪しが分かってきます。もちろん、音が良く聞こえ、歌詞の意味が良く理解出来ていれば、判断の精度は高まりますが、これらが絶対必要というわけではないと思います。
少し違うかもしれませんが、「聴いたものしか聴こえない」というのと似ています。例えばムジークフェラインでウィーンフィルを聴いたことがある人でなければ、「ムジークフェラインでのウィーンフィルの演奏のようだ」という評価は決して出来ないし、聴いたことがあっても「ムジークフェラインの音」「ウィーンフィルの音」を意識して聴かないと、その音を体系的に記憶することは容易ではありません。
私は、オーディオを楽しみたい、そのためにも「音が分かるようになりたい」と思っています。オーディオ仲間とご一緒して、ああこの人は耳が良いなあ、音が分かっているなあと気付くことが度々あり、このような思いを強くしてきました。
そのためには耳も鍛える必要がありますが、「耳を鍛える」とは様々な経験値を積むことだと考えています。そこでのカギは「音の記憶力」ではないでしょうか?
これはいつもMFさんが主張されていることで、私も全く同感です。
機器を変えた、セッティングを変えた、他の方のリスニング・ルームを訪問した、という際に自分なりに評価をしている訳ですが、「音の記憶力」がしっかりしていないと上手く評価出来ません。
「耳を鍛える」ことで「音の記憶力」を確かなものにする。その方法論についても思うことはあるのですが、それはまたの機会に...
まだまだ精進の余地は大いにあると信じています。
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