2019年09月16日
マヌエル・デ・ファリャ作曲の
バレエ『三角帽子』の初演(1919年)から今年で100年。
エラス=カサド&マーラー・チェンバー・オーケストラによる新作は
それを記念するアルバムとして制作されました。
先回の日記で、配信でその一部を聞いた感想として
「鮮烈な音」とか「原色を多用した油絵のような味わい」とか
述べましたが、アルバムを入手して、何度も通して聞き
さらに他の演奏とも聞き比べをしてみると
少しちがった印象も加わってきたので
それを今回はお話ししてみようと思います。
バレエ初演は7月22日、ロンドン・アルハンブラ劇場にて
エルネスト・アンセルメが指揮、
舞台・衣装デザインはパブロ・ピカソが担当し
ディアギレフの主宰するバレエ・リュスが演じたのですが
そのとき演奏されたヴァージョンになるまでに
ディアギレフが、ファルーカ、ホタ、ファンタンゴといった
スペインの民俗舞曲を取り入れるようにリクエストしたため、
大改訂が行われています。
そしてこのディアギレフのディレクションが効いているのだな~
ということを、今回いろいろ聞いているうちに、思い直しています。
つまりこういうことです。
ファルーカのルーツは北部スペインの、
ガリシアまたはアストゥリアスとされていますし
ホタもスペイン東北部のアラゴンに起源があるそうです。
しかしスペイン南部アンダルシアのフラメンコが
大衆化し洗練されていく過程で、
ファルーカやホタも、その1ジャンルのようなかたちで取り込んでいく
という歴史があり、
それによってフラメンコも、より豊かな音楽的表現を獲得していきます。
ファリャが『三角帽子』を作曲した当時は
もうその過程がずいぶん進んでいた時代で
今日私たちがイメージするスペインの国民/民俗音楽に近いものが
醸成されてきていたといえます。
そんな中、ストラヴィンスキーの三部作などで自信を深めたディアギレフが
たとえば『フィガロの結婚』にも採り入れられていたファンタンゴのように
スペイン国外でも徐々に認知が進んできていたその民俗音楽的要素を
積極的に盛り込むという点で
ファリャにも同じようなアプローチを求めたのが
『三角帽子』だった、というのが私の見立てです。
事実、この作品以後、ファリャは
ストラヴィンスキーが新古典主義にシフトしていくのに合わせるかのように、
民俗音楽色を薄めていってしまいます。
この背景にはいろいろなことがあろうかと思いますが
やはり『三角帽子』の成立にディアギレフが果たした役割は
大きかったのではないでしょうか。
さて今回のアルバムに話題を戻しましょう。
ファリャと同じスペイン・アンダルシア地方出身の
エラス=カサドは、グラナダで大学時代までを過ごしました。
グラナダはイベリア半島最後のイスラム王朝の都のあったところで
アルハンブラ宮殿で有名です。
異国情緒も残る内陸の落ち着いた雰囲気の古都といったところでしょうか。
ファリャも『三角帽子』の発表以降の1921年から1939年に
グラナダに移住しています。
ただファリャは、もともとカディス出身です。
グラナダから直線距離にして250kmほど西にあるカディスは、
大西洋に面する港湾都市で、
紀元前よりフェニキアの貿易港として栄えていたそうです。
シェリー酒の醸造でもよく知られています。
二人とも、もちろん本場の出身で、フラメンコをはじめとする
スペインの民俗音楽はよく耳にしていたでしょうから
そういう音楽の機微のようなものは、よく心得ているでしょう。
ですがあまりそのことにフォーカスし過ぎるのもおもしろくないので
ちょっと違った観点から二人を眺めてみることにします。
この二人、けっこうディアギレフ、ストラヴィンスキーコンビの仕事ぶりに
魅かれている割合が高いような気がしました。
何と言いますか、そのコンビのアヴァンギャルドさに対する親和性
みたいなものでしょうか。
今回のアルバムを聞いていると、
もちろん全体的には熱情的な表現の間合いというかうねりというか
そのようなものをエラス=カサドが巧みに引き出してきていて
分厚いオケもそれにじゅうぶんに応え、
フラメンコ歌手の起用もジャスト。。。
アンセルメ、デュトワ、デ・ブルゴスといった先人の指揮に
引けを取らない演奏じゃないかと感じる一方で、
なんだかストラヴィンスキーを聞いた時の余韻と
似たものも感じている自分がいました。
エラス=カサドはこのアルバムのライナーノーツを書いています。
スペイン語なので、私の理解も危ういのですが
次の一節が気になりました。(原文で表示)
En el foco aparece lo ritmico como cualidad radical y definitoria, donde el sonido sedescubre seco, desnudo, punzante y todo adquiere una vibración, diría, que eléctrica.
「焦点が合っていると、リズミカルな音がラディカルで明快な性質として
現れます。そのサウンドはドライで、剥き出しで、シャープであり、
すべてがあるひとつのヴァイブレーションとなります。
それは言うなれば、電気的なヴァイブレーションのようなものでしょう。」
誠に拙い訳ですが、私が読み取ったのは
彼がこのアルバムのアプローチの仕方として
あまり情緒的ではなく、やや無機的に響く上記のような表現をあえて使うことで、
ファリャの描こうとした音楽を冷静に見ようとしていたという点でしょうか。
彼にしてみれば、あまりに自分に近い音楽なので
自戒の意味もこめて、このようなアプローチを採用したのだ
とも言えそうなのですが、私はこれは大成功だったと思いました。
つまり本質的にはホットな表現なのだけれど、
指揮者の冷静たろうとする心がけが随所に垣間見えるのが、
より表現の質を高めている気がしたのです。
パッションだけではない、
緻密かつ入念に計算された音作りに魅了された。。。
そんなところがトータルな感想として、
現時点で私が申し上げられることかと思います。
そしてそのような感想を述べるとき、
ディアギレフ、ストラヴィンスキーコンビに対する
ファリャとエラス=カサド二人の敬意を感じとることができたのが、
いっそう感動のレベルを引き上げてくれた
ともいえそうです。
エラス=カサドの代表作のひとつに数えられるようになるにちがいない
このアルバム、ぜひ機会があればご一聴を!
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