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平凡な音のオソロシさ(ジャズ喫茶「ベイシー」の選択)

日記・雑記
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日記タイトルは
以前、日記で紹介しました書籍
『ジャズ喫茶「ベイシー」の選択』の別頁のものです。
電子書籍でも販売されています。
[:image2:]でもやっぱり紙媒体が良いという人は ISBN4-06-256529-3 をお求めください。
講談社+α文庫から出版されています。
[:image1:]興味を持たれた方はぜひ購入してみて下さい。Kindle版はAmazonから購入可。
2021/04/20追記:立ち読み機能?の使い方を補足↓
Amazonのページ、表紙画像右上「試し読み」から中身を立ち読みできます。
購入前に読む事ができると、安心して購入できます。※読むと分かりますがKindle版はルビのふり方というかページバランスがイマイチで読みにくいです。私は圧倒的に紙媒体の方をオススメ。追記ここまで

前回の日記では
COUNT6[26]「スピーカーケーブル狂騒曲」から一部分だけご紹介しました。
本日も懲りずにまた
COUNT6からの一部内容のご紹介です。
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[23]「ウオの目とオーディオの類似性について」

 聞いた話ではあるが、某医大において、教授陣によるかなり大掛かりで厳重な検査の結果、「病名不明のの奇病でアル」と診断された男の子が、下宿先から実家に帰り、お袋さんにモンダイの足の裏を見せたところ、「何よこれ、ただのウオの目じゃない!?」ということになり、庭に生えていたドグダミの葉を揉んだようなものをベタッと足の裏に貼っておいたら、わずか数日で「完治」してしまったという。
 ---一部始終をあとで聞かされたこの子の父親は医師であったが、「ガクゼンとしましたネ、私は」と嬉しそうに話してくれたのだが、複雑な笑顔であった。
 話を聞いたぼくも大変嬉しそうに笑ったが、---笑ってばかりもいられない。
 医師にしてみれば、大学病院における「近代医療の盲点」という、由々しき一大事。
 ぼくにしてみれば、生命に別状はないとはいうものの、笑いながらも例によって「オーディオ」にからめた似たような事態を既にアタマの中で想定している・・・・・・。
 「ウオの目」と「オーディオ」とどういう関係があるのかというと・・・・・・、此処で気付く人と気付かない人では先で大きく分かれる。
 例えば、いくら高いモノに買い替えてもちっともいい音が出ない、という人が仮にいたとすると、というより現実にいるのだが、この場合多くは、悪いのは「キカイ」ではなく自分の「アタマ」だということに気が付いていない。
 高級な音を考えるあまり、ラジオ、テレビの音でも結構、音楽を楽しめたり、お笑い番組で笑ったりできるものだということを忘れ、そういう<普通の音>を馬鹿にしているというか、度外視している。
 自分は”次元”の違う<音>を考えているのだと信じ込んでいるらしいのだが、”次元”の違う音を狙うのは、ラジオ、テレビ、の音に勝ってからにしていただきたい。
 ひっくり返して見ればわかることだが、ラジオ、テレビに「内蔵」されているアンプなど、いたって質素なものだ。それでも音は、原理的にはちゃんと出る。
 パワーアンプだけで何十キロも目方のある、100万円もするキカイで、ロクな音が出ないといって、倍の200万円のアンプを狙う前に「待てよ?何かがおかしい」と首をかしげてみるのがフツーの人の神経だ。
 首をかしげるのが面倒だったら、せめてアンプの電源プラグを逆に差しかえてみるくらいのことは、最低やってみてからでも遅くはない。例えばの話。
 それで全部が解決するほど世の中甘くはないが、400万円のアンプにまでエスカレートするよりはまだマシな場合だったあり得る。
 アンプに限らず、スピーカーだったり、プレーヤーだったり・・・・・・ソコが悪い、と思い出すと何処までもソコを責めたがるのが”オーディオマニア”といわず、人の常と言うものかも知れない。
 この場合「発病」はとっくに起こっており、「病状」も次第に悪化の一途をたどっているのがハタにはハッキリしているのだが、本人には「病巣」の位置がわからない。
 「アタマ」が悪いのに「心臓」を摘出したり、「耳」が悪いのに「歯」を抜いたって始まらない。それは、単なる「誤診」だ。
 先の男の子だって、まともなお袋さんがいて「ウオの目」と見破ったからいいようなものの、「病名不明の奇病」のまま入院でもしていたら「転移」を恐れた医師団は人名尊重の安全策をとって、取りあえず片脚を切断(!)していたかも、かもですヨ、知れない。
 それではチト大袈裟なことになっちまうだろう・・・・・・。
 で、いくらカネをかけてもテレビやラジオのようなまともな音が出ない場合、「原因」、つまり本当の「病巣」は何処にあるのかという初期の「診立て」が、何よりまず一番肝心、ということだろう。
 不幸なことに、先のお袋さんのようなまともな人はハナからソコまではやっておらず、ソコまでやっている者は皆すでに「発病」済み、という理不尽さにあるわけだから、かくいうワタシの吐くことなど決して信用してはいけません。
    ~中略~
 タテジワ寄せる前に、も一度ものを簡単に考えてみよう、と今ぼくは自分に言い聞かせているところだ・・・・・・。

[24]平凡な音のオソロシさ

 ぼくの考える「いい音」というのは、割と平凡な音のことだ。
 ロクハン(6・5)や、8インチの小型フルレンジスピーカーの音を、そのまま拡大したような音がいいと思っている。
 小型フルレンジの音が好きな証拠に、ぼくはこの三十数年間に実に多くのフルレンジスピーカーを自家用として使った。
 ステレオ初期のラジオを二台並べてクリスタル・カートリッジのプレーヤーで聴いていた時もロクハンが二発ずつ入ったラジオで、片方がナショナルで片方がゼネラルだった。
 この、ラジオ二台並べた「ステレオ装置」が如何にいい音がしていたかは、当時感動した音楽を挙げればすぐに思い出すことができる。
 一つは、レッド・ニコルズの伝記映画、「五つの銅貨(ザ・ファイヴ・ペニーズ)」のサントラ盤で、ぼくは高校生の分際で、この映画がかかっている間、毎日映画館に通った。何回観ても同じところで涙を流した。
 映画が去った後で、サントラ盤を買った。これも毎日聴いた。右のラジオからサッチモの歌が聴こえ、左のラジオからダニー・ケイの歌が聴こえ、そして真ん中の空中に娘ドロシー(スーザン・ゴードン)の可憐な声がポッカリと浮かんだ。
 「ステレオ」とはなんといいものかと、その時心底思った。
 サナトリウム時代には、このラジオでフルトヴェングラーの<運命>のライヴ演奏を傍受して涙したし、第一、ぼくの”運命”を決定づけたといわれるカウント・ベイシーの『ベイシー・イン・ロンドン』を最初に聴いてガクゼン(!!)としたのも、考えてみればこの、ラジオを二台並べた「ステレオ装置」の<音>だった。
 人のその後の人生を決定づけるようなインパクトを与えたものが、決して”立派な”「ステレオ装置」ではなく、ただのラジオ二台を並べただけの「ステレオ装置」であったところが重要だ。
  物のない時代には、ちょっとしたことにでも感動できる。
  それもあったとは思う。でもしかし、ぼくは思うのだ。
  もしかして、本当に「いい音」だったのではないか(!?)と・・・・・・。
 考えてもみたまえ。型番も知らねど、ロクハンのフルレンジスピーカーが二本、背面開放の木製の大き目の箱に入ったラジオだ。しかも真空管の「パワーアンプ」が内蔵されているのだ。クリスタルの高出力カートリッジから直接このパワーアンプに信号は送り込まれる。---今考えると悪かろうはずがないではないか(!!)と思えるのだ。どころか「理想的」とさえ思えてくる。
    ~中略~
 15インチが四発並んだジムランの3ウェイ・マルチスピーカーを、同じく全部ジムランのマルチアンプでドライヴする我輩の、今ではあの頃と比べようがないほど””
”立派”な「ステレオ装置」で、レコードだけあの頃と同じものを聴く。
 「凄い!」といえば凄い音はする。しかし、涙が出ないのはどーしたわけだ!?
    ~中略~
 ダラシがないといえばダラシがない。ぼくはたぶん、ドン・キホーテみたいなことを延々とやってきたのかもしれない。
 重ねて自分にもいおう。”立派”な「ステレオ装置」がなければ感動できないと思うのはとんだ思い違いだ。「いい音」さえすればいつだって感動するものだ。
 そして、その感動させた奴は、きっと「いい音」だったに違いないのだ。

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とまあ、今夜はこれくらいにしておきます。

自分が面白いと思うのは季刊ステレオサウンドの
故人「菅野沖彦」氏と「菅原正二」氏との対称性です。

菅野沖彦氏は・・・

『音楽は芸術であって、芸術を再生するオーディオ機器もまた
 ”それなりの”もモノを揃えなければ演奏家や音楽に対して失礼じゃないかキミ。
 安物のキカイで聴くなんぞ芸術(ゲイジュツ)への冒涜(ボウトク)でアル!!』

といった風で、
要は”立派な”「ステレオ装置」 いわゆる”ハイエンドオーディオ”『しか』
お認めになられない御仁であった(ように見えた)からです。
※主張される”理屈はわかります”が、私とは相容れない主張の持ち主でした。
 兎にかく、高価に機器を売りたい勢力の代弁者に見えたのです。
 そのような勢力の上得意様を 『レコード演奏家』 と煽ててその気にさせる。
■Phile-web上に『菅野沖彦ピュアオーディオへの誘い』と題した連載あり
https://www.phileweb.com/magazine/sugano/archives/summary.html
私とは相容れませんが、氏の主張は一読の価値はあるものです。
菅原正二氏の書籍、そして菅野沖彦氏の遺したメッセージ(ピュアオーディオへの誘い)、
その両方を読まれる事をおすすめします。※それでバランスが取れます

 このお二人が和気あいあいと試聴をする様子は良い意味で
陰影というかコトラストがあって面白いと・・・昔はよくステレオサウンド誌を
購入していました。ハイエンドは私にとって雲の上の存在です。
でも、基板とかカタチは見ていて綺麗なんですよねぇ。
答えが決して一つではなく、未だに様々な主義・主張があって混沌としている・・・
多様性が失われていない様子。この混沌こそがオーディオの魅力。
自然界と同じく、厳しい環境を生き抜くには、多様性こそが強さです。

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