前半戦の眠り猫さん来訪オフ会を終えてから、後半戦としてフェスタサマーミューザ川崎にやって来ました。もともと、この日のコンサート鑑賞が同じ予定でしたので、この日に合わせて前半後半としたものです。
自宅でのオフ会の感想やコンサート体験の話をしながら向かう中で、自称:クラオタと言われるだけあり、クラシック音楽に詳しいのと自分とは視点が異なるので刺激的な会話タイムを楽しみました。
会場に到着したのは、プレコンサートの解説が始まったタイミングです。
自分の席は、1階4列右ブロックの角席で実質最前列でしたので、そのまま着座しましたが、眠り猫さんは1階3列センターブロックの中央でしたので、ステージ横の扉の位置からの聴く形となりました。
FSM 8日目(8/4):NHK交響楽団
指揮:沼尻竜典 ヴァイオリン:戸田弥生*
演奏曲
・プレコンサート 川上哲夫:コントラバス四重奏のためのソナタ から
・ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op. 77*
・ブラームス(シェーンベルク編):ピアノ四重奏曲第1番 ト短調 op. 25(管弦楽版)
お気に入り席を探す中で、今回の座席位置は1C-4-35です。
この席は15年ほど前に何回か座って聴いたのですが、どうも好きになれませんでした。反面として、ちょうど反対側になる左ブロックの角席が好きで、定期会員の席に選ぶほど気に入っていました。だから、この席の聞こえ方が一番の注目ポイントだったのです。
プレコンサートでは、
初めて聴く、存命の川上哲夫作曲のコントラバス四重奏のためのソナタ からです。低音楽器4本による四重奏曲で、各コントラバスが音域を変えながらの演奏でしたが、聴きなれない感覚でピンと来なかったです。2楽章のわかりやすいメロディラインになるとホッとしたのは、まだまだ現代曲への適応性がない証拠ですね。ステージ近くの席でしたので、見え方は申し分なかったです。4人の奏者のやっていることはよくわかりました。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲 では、
冒頭入りの低音の和音は身体に響いてきて、おっと思ったのですが、メロディラインの聞こえ方がどうも寂しく感じます。ブラームスのヴァイオリン協奏曲は、華やかな曲ではなく、どちらかと言うと地味な曲と感じていましたが、ソロヴァイオリンも太目に沈んで響く感じで物足りないのです。自宅のオフ会で、「高域がさびしい」と指摘されましたが、それよりももっと先にいっている感覚でした。
第3楽章に入って、印象的なメロディラインとオーケストラの総奏に期待したのですが、もう一つ響いてこなかったです。音量感も、ステージに近い席なのですが第2回(東京都交響楽団)で聴いたモーツアルトと同程度と感じ、若干肩透かしでした。
休憩時に眠り猫さんは「よかった」と言われていて、自分がもう一つ楽しめなかったことを、「もしかして前半戦のオフ会の疲れのせい?」などと自分の内面を探る休憩時間だったような気がします。
ブラームス(シェーンベルク編):ピアノ四重奏曲第1番(管弦楽版)では、
これは楽しめました。ほとんど聴いたことのない曲でしたが、どこかで聴いたことのある感覚です。分厚い弦の響きが身体にまで響いてきて生の醍醐味を味わいます。座席選びの時は、ピアノが題名に入っていたので右側にしたのですが、演奏は管弦楽版でしたのでおやおやです。
分厚い響きを感じながら、編成を確認したのですがステージに近いので全体はよく見えませんでした。ビオラが12本、チェロが10本?、コントラバス7本? ヴァイオリンは?。個々の奏者がやっていることを見るなら2階席の方がよかったです。反面、指揮者の様子はわかりやすかったです。音量面でも、ステージ近くなのにそれほど上がらずに、グランカッサが鳴る部分でも82dB程度でした。
音の傾向としては、「沈んだ感じの音」に感じました。聴きながら、これが以前からこの席がお気に入りにならなかった原因だろうと感じます。ここから類推すると、反対側の左ブロックの角席は華やかな感じの音が聴ける筈、との仮説を持ちました。これは、来週に反対側で聴きますので検証する予定です。
この曲では、沈んだ感じの音色が分厚い響きとマッチして、第1楽章から第3楽章まで満足して聴けました。欲を言えば、もう少し抑揚を感じたかったかなと。ですが、ミューザのお客さんは皆さん満足げに大きな拍手だったです。
そしてアンコールは、ブラームスのハンガリー舞曲第1番。流れるようにスタートし、楽しい感じで終わる。音楽のお祭りにふさわしいラストだったと思います。
さて本題の「ミューザのお気に入り席を探す」ですが、この席はたぶん選ばないと思います。「沈んだ感じの音色」「演奏者がやっていることが見えにくい」「ステージに近いのに音量が上がりにくい」やはり、15年前に感じたことは今でも同様に感じるものですね。ただ、15年前は漠然と「好き嫌い」で捉えていたことが、明快な理由を意識できるようになっていたので、自分も成長したのかな?なんて思えてうれしさも感じました。
<経過>ミューザのお気に入り席を探す計画
第1回(7/27):東響オープニング
第2回(8/1):東京都交響楽団
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ヒジヤンさん
日曜日はありがとうございました&お疲れ様でした。
>休憩時に眠り猫さんは「よかった」と言われていて
たぶんここは演奏の好みと視聴位置の相違かと。
私がソリスト戸田さんの野太い音が好きで、かつソリストから非常に近い席なので大いに楽しめたのですが、ソリストの姿勢や向きによってかなり音の飛ぶ方向性や響き方が異なるため、ヒジヤンさんの席の方向だと少々聴こえ辛かったのではないか、と思ってました。
(1階よりも、ある程度距離がある上層階のほうがよく響いたのではないかと思います。)
後半は、私のほうはむしろ今ひとつに感じました。
真ん中の席だと音が飽和気味で、前半の抑えた伴奏では良かったのですが、後半は細部が塗り潰されてしまったように感じました。指揮者によってバランス良く丁寧に音がブレンドされていたのに、その席で聴こえるホールの響きと相性が良くなかったようです。
ノット/東響だと、演奏の傾向が違うのと、おそらくホールの特性を熟知しているためこのような感想は抱かなかったのですが。
眠り猫さん、おはようございます。
先日は前半後半とお疲れさまでした。刺激的でもあり、普段と違う視点を学ぶよい機会でした。
コンサートでも、音の好みや求めるものの違いで感想は変わりますね。
>たぶんここは演奏の好みと視聴位置の相違かと
>後半は、私のほうはむしろ今ひとつに感じました。真ん中の席だと音が飽和気味で、前半の抑えた伴奏では良かったのですが、後半は細部が塗り潰されてしまったように感じました。
演奏の好みと視聴位置の違いもあると思いますが、「適正音量の違い」も大きいかと思いました。
拙宅でのボーカル音源での適正音量の差が物語っていますね。
ヒジのプレゼン音量・・・約70dB
眠り猫さんの適正音量・・約50dB
◆何と20dBの差がありました。エネルギーで100倍、聴こえる大きさで4倍の差です。
感想も連動していますね。
ヴァイオリン協奏曲・・・眠り:よかった ヒジ:物足りない
ピアノ四重奏曲 ・・・眠り:飽和した ヒジ:よかった
関東近郊ではヒジは大音量派と言われていますが、四国はすごかったですよ。何と、最大音圧レベル120dBを観測しました。
70dBと比較しても、エネルギーで10万倍、聴こえる大きさで32倍です。
人はどうしても自分基準でものを考えますが、世の中広いことを知ることも幅を広げるのにためになります。その面、眠り猫さんからはたくさん学ばせてもらいました。ありがとうございます。
こんばんは。
確かに、ヒジヤンさんが仰る通り「適正音量の違い」もありそうですね。
自分自身はこれまでの人生で、身の回りの人と比べても音量に関して特段感度が高いと感じたことはなかったので、他の方々の視聴音量の話はなかなか衝撃的でした。
オーディオマニアのあるある話として家族や近隣からのクレームがありますが、それだけ鳴らせばそりゃそうなるよね、とようやく腑に落ちた次第です(笑)
眠り猫さん、あるあるの話
実は自分もオーディオ再開時に、秋葉原で最新のシステムで聴いてきた後で、古い自分のシステムを倉庫から引っ張り出して聴いた時のことです。
古いシステムの音がどうしても納得がいかずに、どんどん音量が大きくなってしまいました。それが夜中にまで及んだので、隣の家から怒鳴り込まれてしまいました。
その時は、人生終わった!・・・かの如くに落ち込みましたよ。
しばらくして、防音をすればいいんだ!と思いついて、リフォーム会社に駆け込んだのが今の仕様です。音漏れの激しい部分からの対策です。
窓・・・ここが一番もれます。隣の家に面した窓は潰して、内外壁以上の面密度 を持たせる改修の実施。
採光に必要な右側の掃き出し窓は、ガラス板厚UPと二重窓化
床下の換気口にはシャッターの追加
屋内向けには、
隣室に漏れる部分の壁面の面密度アップと同時に、音響処理の実施。
これで今の音量でも、(少なくとも)苦情はないです。夜は音量を下げています。それでも、聞こえなくはないでしょうね。ギリギリの線かと。
防音は音量を出しても迷惑をかけないためには必須の事項ですが、室内音響にとってはデメリットが大きいので考えものです。
逃げ場のない音は、室内を反射しまくり、
・多大な定在波を招いてしまいます。
・フラッターエコーの発生にも不利ですね。
・逃げ場のない低音がボンつき、中域高域を汚してしまいます。
何事も塩梅が大事なのです。
その面、眠り猫さんは小音量で満足できるのですから、自身の満足度のためには有利な条件を獲得していると言えます。世の中で、防音を充実させたがために苦しんでいる人を沢山見てきました。