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年譜にみるバンジャマン・ゴダールの音楽〔2〕

日記・雑記
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                     2019年04月30日

19世紀後半のフランスの音楽家
バンジャマン・ゴダールの足跡をたどるということで
前回は彼の20歳代前半(1872年)までのお話をしました。

ここで、また時計を逆回しにします。。。(汗)
実は前回の日記以降、ヴァイオリンソナタのライナーノーツを読みまして
なかなか興味深い内容だったので、ご紹介したくなったのです。
書いたのは、エマニュエル・ペラプラ(Emmanuel Pélaprat)
(以下E.P.と略します)。
彼はハーモニウム(英語ではリード・オルガン)奏者でもあります。
演奏の様子はこちら
「Emmanuel Pélaprat Rudolf Schartel International Harmonium Festival Bern」
https://www.youtube.com/watch?v=JEysrPNIuPs
小型のパイプオルガンないしは
ハンディーでない?アコーディオンという印象の音ですね。

ゴダールのヴァイオリンソナタが作曲された当時(1866年~72年)の
フランスの室内楽の状況は、私も興味があって、少し調べていました。
ヴァイオリンソナタって、あんまり書かれていなかったのですね。
この点について、E.P.も書いていて
1840年のアルカン、56年のラロぐらいというさみしさ。。。
フォーレは75~76年、サン=サーンスが85年、フランクが86年
ただ彼らはゴダールのように4作も書いてはいません。
(まあたくさん書けばよいというものではありませんが。。。)
しかも作曲技法的には最も手の込んだ、
マスターピースとでもいえるであろう
ゴダールの第4番にいたっては、楽譜はドイツで出版されており
作曲した72年から8年後、80年のことでした。。。
もしかしてドイツの作曲家と思われていたかも。。。っていうぐらいの
認知度だったようです。
ちなみにフォーレのヴァイオリンソナタもドイツで出版されましたが
まったく売れず、ドイツ国内ではゴダールのものの方がまだましだった
とのこと。。。

ではなぜゴダールはヴァイオリンソナタが書けたのか?
それはパリ音楽院に入学以前に彼の音楽教師であった
リヒャルド・ハンマー(Richard Hammer 1828-1907) の
教育によるところが大きかったというのが、E.P.の見方です。

ハンマーは1850年にフランスに居を構えるようになった
ドイツ人のヴァイオリニスト・作曲家
ドイツの室内楽の紹介に積極的だったようで
シューマンやブラームスの多くの作品のパリでの初演は
彼によるものだったとのこと。
事実、ゴダールの第1番ソナタは、彼に献呈されています。
なるほど豊かなドイツ音楽の土壌に育まれていたことがわかります。

ここで、ちょっとだけ普仏戦争のお話を。
このハンマーさん、かの戦時においてもドイツには帰らなかった模様。
E.P.によれば、戦後もゴダールとは親密な関係が続き
1877年ごろには2人によって弦楽四重奏団が結成され
ゴダールはヴィオラを弾いていていたそうです。
彼はどうもヴィオラを弾くのが好きだったらしく
後年ヴァイオリニストとして名声を得た後も
ヴィオラやピアノを弾くことが多かったとのこと。

もう一人、若きゴダール周辺でカギとなる人物としてE.P.がふれているのが
パリ音楽院で彼に作曲を教えた
アンリ・ルベル(1807-1880)でした。

1863年にゴダールが入学した当時はルベル以外の教員は
すべてと言っていいぐらいオペラ作家であり、
彼に選択の余地はなかったようです。

ルベルの功績はというと、ウィキペディアによれば
「和声法」という著書がフランス和声法の長年の根幹となってきた
とあるので、ゴダールもかなり理論を叩き込まれたのだろうと思います。
でもそんなに優秀な生徒でもなかったようで
次のようなエピソードが報告されています。
ゴダールはあまり自分の作曲へのアプローチにおいて
アカデミックな関心がなく、
音楽において最も大切なのは情緒(sentiment)であり、
それをいかに曲(フーガ)に吹き込むことができるかであると
考えていたそうで
こういう態度はルベルを大いにがっかりさせたとのこと。。。
ただルベル自身はピアノトリオを7作もつくっていたキャリアがあり
ゴダールの室内楽作家としての技量は理解していたようです。

このようなごく少数の理解者にしか恵まれなかった若きゴダールは
登竜門のローマ賞のコンペに2度(1866年・67年)応募するも落選。
しだいにサロンへの接近を強めます。
第3番ソナタ(1869年)はそういう最中の作品だとE.P.は評しています。
当時の批評も、ごく冷淡なもので、「良くて」こんなものだったというのが
「作曲者はまったく特異な(idiosyncratic)作曲法をしており」とか
「時に風変りだが、けっして陳腐ではない」とかであったとE.P.
こうしたエキセントリックな作曲家という見方は
1880年ごろまで続きます。
その流れが変わるきっかけになったのが
1878年に、パリ市主催の作曲コンクールにおいて優勝したことで
そのときの入賞作品は合唱交響曲「タッソーLe Tasso」であり
ウィキペディアはこの作品を
「ことによると最も重要なゴダール作品かもしれない」
といっています。
でも私は聞いたことがありませんが。。。

おそらく次回は1870年代、つまり普仏戦争後、20~30歳代の
彼の作品をさらに振り返っていけたら。。。と思っています。

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