2021年05月28日
ここ最近1か月ほどのうちにリリースされた新譜のうち
気になるものが2作ありました。
今日はそのうち、ジャン・ロンドーの
『メランコリー・グレース』というアルバムを聞いての
所感を述べてみたいと思います。
チェンバロとヴァージナルの独奏による作品です。
ヴァージナルという楽器は、
広義にはチェンバロの一種と言ってよいものですが
17世紀以前の古いタイプで、小型であり
弦もピアノなどとはちがって、奏者からみて横に張られています。
このアルバムで演奏されているヴァージナルは
1575年頃に製作されたと思われる多角形型のオリジナル・ヴァージナルで
おそらく史上初のものなんだそうであります。。。
やはりよく聞くチェンバロとはかなり音色が異なります。
「Jean Rondeau plays John Bull on original 16th-century virginal (Melancholy Pavan)」
https://www.youtube.com/watch?v=HKCrTDyFM4w
響きに独特の豊かさ・甘さがある感じで
きらびやかなチェンバロの音色からすると
コラ(アフリカの竪琴)やリュート(特に低音の出るテオルボ)なんかに
近いような印象もあります。
この歴史的なヴァージナルを用いて
ロンドーは何を表現しようとしていたのか?
「涙と泣き声の音楽的表現を通して伝えられるメランコリー」なんだと
解説されているのですが、
そのカギとなる作曲家として挙げられているのが
ジョン・ダウランドなのです。
ダウランドは「イングランドのエリザベス朝後期およびそれに続く時代に
活動した作曲家・リュート奏者」とwikiにはあります。
「涙のジョン・ダウランド」(Jo: dolandi de Lachrimae)と自署した
などというエピソードも紹介されていて
まさに「メランコリー・グレース」が売りの音楽家であったようです。
「涙のパヴァーヌ」の愛称で知られる「流れよ、わが涙」が
最も知られている曲で、このアルバムにも
デジタル配信版のみのボーナストラックとして収録されています。
「この曲はヨーロッパ全体、特にフランドルとドイツで、
スウェーリンクやシャイデマンなどの作曲家に強い印象を与え、
さらにそれより3世紀以上後、
彼の作品に最も影響されたベンジャミン・ブリテンのような
現代作曲家に影響を与えました」
とは、ロンドーの解説よりの引用ですが
何となく腑に落ちなかった私は
そういう時にヒントを得るため、よくパラパラとめくる1冊
岡田暁生著『CD&DVD51で語る西洋音楽史』にあたってみました。
私の疑問は、ダウランドのメランコリーの持つ歴史的な意味でした。
なぜ彼の「流れよ、わが涙」が
汎西欧的な広がりを歴史的にも持続できたのか?
そもそも音楽におけるメランコリーの歴史的な意義って何だろうか?
岡田さんは「16世紀に生じた音楽史の気分の激変」を
ダウランドと同時代のドン・カルロ・ジェズアルドの音楽を
とりあげながら論じています。
16世紀に入るとともに人々は、「情念の表出」としての音楽のありように、
少しずつ気づくようになってきた。「美」から「表現」となった音楽は、
もはや調和してはいない。「美」とは、人の内面からはある程度距離を
置いた秩序であり、客観的な存在だ。それに対して感情表出は、
「今、ここ」に満たされない「主観=わたし」の存在を前提とする。
それは満たされていない。何かが軋んでいる。
ここにないものを強く希求する衝動、望んでも得られない安息への渇望。(P43)
メランコリーは、「情念の表出」としては、音楽向きだったんだろうな~
受け入れる側にも無理がない感じがするし。。。
それが上記の一節を目にした時の私の第一印象でした。
聖なるコスモスの追求から、世俗の情念の世界を映し出すものへと
音楽が変貌していく、その時期に生まれた作品たちを
ロンドーは描き出そうとしていたのか。。。
ヴァージナルが描かれた絵画というと
フェルメールの名が挙がってきます。
17世紀にかけて、この楽器はヨーロッパの家庭にかなり普及していきます。
そして、おそらくそうしたヴァージナルによって
「流れよ、わが涙」はスタンダード曲のように
演奏されていたのかもしれません。。。
その後も、ある種、メランコリーの調べの原型のようなものとして
ブリテンやグールド、そして現代のスティングにいたるまで
脈々と受け継がれていった。。。
そんなふうに理解できました。
「Britten ‘Lachrymae’ Viola & Orchestra – Cristina Cordero」
https://www.youtube.com/watch?v=E9vMLIK8mu0
翻って、こんな歴史をたどろうとしている私はどうなのだろう?
コロナ禍に、いくばくかは翻弄される日々を
同じメランコリーの精神史の流れの中で生きているんだろうか?
このアルバムを聞きながら
東洋の片隅で、ふとそんなことを考えている私がいたのでした。。。
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