■ はじめに
Dirac ART(Active Room Treatment)は、ルーム補正の常識を根本から塗り替えた。
これまでの補正が「スピーカー単体の誤差修正」だったのに対し、
ARTは部屋そのものを制御対象にして、空間の音波を再構築する。
■ 従来の補正:1本ずつの“誤差修正”
EQやDirac Liveは、各スピーカーを個別に測定して
音量・タイミング・周波数特性を補正する。
ただしこの方法では、部屋の中で生まれる定在波や反射の干渉までは扱えない。
低音が席によって変わる、あるいは特定の帯域が消えるといった問題は、
スピーカー単体の補正ではどうしても残る。
■ ART:全スピーカーで“空間を作り直す”
Dirac ARTは、考え方を完全に逆転させる。
スピーカーをバラバラに扱うのではなく、
全スピーカーとサブウーファーを1つの統合システムとして動かす。
測定によって各スピーカーが部屋の中でどう響くかを把握し、
「どのスピーカーを、どのタイミング・音量・位相で鳴らせば、
リスニングエリア全体の波形が理想になるか」を**MIMO制御(多入力多出力)**で計算する。
結果として:
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出過ぎている帯域は他のスピーカーの逆位相成分で抑える
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出にくい帯域は近くのスピーカーが同位相で補う
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全体で、波の干渉を最小化して整列させる
つまり、部屋全体の“波の形”を再設計する技術だ。
■ ノイズキャンセリングではない
ARTはノイズキャンセリング(ANC)のように単一マイクの逆位相出力で“打ち消す”ものではない。
ANCは「点の消音」だが、ARTは空間全体の波を整える。
消音ではなく、協調干渉による波の再構築を行う。
■ 吸音でもない
パッシブのバストラップは音を吸ってエネルギーを減らす。
一方ARTは、音を再配置してエネルギーを保ったまま整える。
結果としてRT60やウォーターフォールで残響が短く見えるが、
それは吸音ではなく波の整列による副産物だ。
エネルギーは消えていない。滞留していた音が秩序を持って消えていく。
■ 静的な制御
Dirac ARTはAIがリアルタイムで反応しているわけではない。
測定データをもとに事前計算されたフィルターを機器に書き込み、
再生中はそれを静的に適用している。
つまり、曲によって補正が変わることはない。
リアルタイム制御ではないが、結果として自然な一体感が得られる。
■ MIMO制御の考えは昔からあった
「複数のスピーカーを協調させて部屋の音場を制御する」という発想は、
実は2000年代初頭から学術研究として存在していた。
“Active Room Equalization”や“Multichannel Active Control of Sound Fields”と呼ばれ、
理論的には可能とされていたが、当時は次の壁に阻まれていた。
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膨大な計算量でリアルタイム実装が不可能
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測定精度とマイク数が要求されすぎて現実的でない
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数式上は成立しても、実機で**不安定化(発振・逆行列暴発)**する
つまり「夢の理論だが動かない」状態が長く続いた。
Diracの功績は、この理論を安定化させて民生レベルのDSPで動かせるようにしたこと。
特許レベルで非公開のアルゴリズムだが、
周波数帯域ごとに安定性を保ちつつMIMO最適化を分割処理する構造と考えられている。
要するに、Diracは理論の発明者ではなく、初めて実用化に成功した開拓者だ。
■ 効果
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定在波が大幅に減り、低域が均一化する
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リスニング位置を外しても極端な変化が少ない
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音が“部屋から出てくる”のではなく、“スピーカーから直接届く”ような明瞭さ
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グラフ上でもウォーターフォールの尾が短く、RT60が改善して見える
■ 従来型との違いまとめ
| 項目 | 従来の補正(EQ / Dirac Live) | Dirac ART |
|---|---|---|
| 対象 | スピーカー単体 | 全スピーカー同時 |
| 制御方式 | SIMO(単一入力・多出力) | MIMO(多入力・多出力) |
| 目的 | 周波数特性の補正 | 空間波形の最適化 |
| 手法 | 個別補正 | 協調制御 |
| 結果 | 周波数が整う | 空間全体が整う |
■ まとめ
Dirac ARTは、部屋を補正する技術ではなく、部屋を“指揮”する技術。
昔から夢見られていた「スピーカー協調による空間制御」を、
Diracが初めて現実のリビングで動かした。

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