ニーチェと音楽と言えば、リヒアルト・シュトラウスの「ツアラトゥストラはかく語りき」が有名ですね。
「ツアラトゥストラ」はニーチェの代表作で、ゾロアスター教の教祖のことです。
ゾロアスター教は善神と悪神の対立としてこの世を捉えたがために、この教祖は最初に「善悪の彼岸」に到達したはずだ、と考え主人公の名前にしたそうです。内容はもちろんゾロアスター教とは全く関係がありません。
リヒアルト・シュトラウスはナチスの音楽局の副総裁で、総裁はフルトヴェングラーでした。
ニーチェの父は聖職者で、ニーチェが6歳の時教会で説教したところ、聴衆は皆感動し、涙を流したそうです。
ニーチェは20歳の時、大学に入学し、途中兵役につきましたが、落馬して重傷を負い入院生活をした後、大学に復学して1年経った頃、24歳で、まだ大学は卒業していなかった時、バーゼル大学に准教授として着任しました。しばらくして母校から卒業証書が送られました。
翌年バーゼル大学の古典文献学の正教授に就任しました。本人は哲学の教授になりたかったようです。同僚には著名なブルクハルトがいました。
大学生時代から親交があったのが、ワーグナーとその妻コジマで、三人で良くワーグナーの自宅や山中を歩きながら、音楽や哲学を語り合ったそうです。
ニーチェの処女作は「悲劇の誕生」で副題が「音楽の精髄からのギリシャ悲劇の誕生」で、この副題が「再生」として扱われ誤解を生んだと後年ぼやいていました。
「音楽の精髄」と表現しているところに、ニーチェの音楽に対する思い入れの強さが窺えます。
この本の主題はなぜ快活で明るいとされていた古代ギリシャで、暗い悲劇というアミューズメントが生まれたのか?です。
アリストテレスは悲劇の効用を精神のカタルシス(排泄)作用にある、と説きました。ギリシャ悲劇を鑑賞した後気持ちがさっぱりする、という訳です。
もちろんニーチェはこの説にくみしてはおりません。
ニーチェの著作は当時の評論家たちには不評で、「優れたドイツ語作文の学習用には最適。今後は内容にも注意を向けてもらいたい。」
ニーチェはその後ワーグナーとは思想的に相容れず、決別しましたが、コジマに対しては理想の女性として終生好意を持ち続けていました。
しかしコジマの方は「ちょっと病的な人」と感じ、自ら近づこうとはしませんでした。
作曲家ではショパンを絶賛し、シューマンは「甘ったるいザクセン人の音楽」とけなしていました。
今年の六月、滋賀医科大学管弦楽団の定期演奏会で、初めてシューマンの交響曲第1番「春」を聞きましたがなかなか良かったと思いました。
同楽団は指揮が卒業生の岩井一也氏で、同大学生、看護学校生、そのOBやOGから構成される総勢60数名の楽団ですが、徐々に力を付けてきており、この12月17日の定期演奏会でのドヴォルザークの交響曲第8番はなかなか素晴らしかったです。
リヒアルト・シュトラウスと並んでニーチェの影響を受けた作曲家がマーラーです。
その交響曲第3番の第4楽章のアルト独唱で、「ツアラトゥストラ」の第4部に現れる詩を歌詞として引用しています。
その詩はニーチェ哲学の根本思想である「同一物の永劫回帰」思想を、深い眠りから目覚めた「真夜中」が語り始めるという内容です。
この思想は仏教の輪廻を想起させますが、時間が無限であること、エネルギーは永久に保存されること、この2つのことから、ありとあらゆる組み合わせは1度は達成されるはずである、否、一度達成された組み合わせは無限の時間に無限回達成されるはずである、という考えからきています。
初期の宇宙論では、ビッグバンにより急速に膨張する宇宙は、次第に速度を遅くし、あるところから逆に急速に収縮しはじめ(ビッグクランチ)また1点に戻った後、再度急速膨張を繰り返すことで、永劫回帰が達成されるかも、と期待されていましたが、観測の結果、宇宙の膨張速度はどんどん加速していることが分かり、宇宙の熱的死(ビッグフリーズ)になることが確実になり、永劫回帰は絶望か、と思われました。
しかし最近のインフレーション理論により、「無」から量子的ゆらぎにより、とてつもなく急速に宇宙が膨張するフェーズがビッグバンの前にあることが明らかになってきました。
この急速膨張をもたらす量子的ゆらぎは、ありとあらゆるところで多発し、これまでのユニバース(ひとつの宇宙)からマルチバース(無限個存在する宇宙)という考えに発展し、ふたたび「同一物の永劫回帰」の可能性が高まってきました。
宇宙を構成する基本定数の組み合わせは10の43乗通りあるとのことです。この組み合わせのうち、星が形成される組み合わせは極、極わずかですが、無限の時間、無限個の宇宙では無限回達成されることになります。
ニーチェはディオニュソス的世界観や陶酔を語りましたが、酒は飲めず、飲料は「紅茶は朝だけ効き目がある」とし「コーヒーは気分を暗くする」ので飲みませんでした。
教授職を10年ほど続けた後、体調不良で辞職し、その後はささやかな年金と著作料で生活し、44歳で路上で昏倒して入院し、1900年、55歳で死去しました。
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